開運 筆文字 ありがとうの森

ありがとうは幸せの種 言葉のチカラであなたは幸せになれます。あなたが開運する言葉や考え方、人生の楽しみ方などを紹介しています。

あなたが尊敬する人 ありがとう

あなたが尊敬する人は誰ですか?

そういうアンケートにあなたは誰の名前を書きましたか?

そういう時には、超有名な偉人の名前を書こうとした記憶ありませんか?

わたしとつながる群馬のSさんの
メルマガ「ありがとう!今日も幸せです」http://merumo.ne.jp/00607255.html
で教えていただいたお話です。

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『親の愛』

「親の愛は山よりも高く海より深い」
という言葉があります。
親があってこそ今の自分が存在しています。

「いつまでもあると思うな親と金」
独立心と倹約をうながす諺ですが
親の健在なうちに少しでも多く
感謝の言葉を伝えたいものです。

きょうはネットで見つけた
親への愛について書かれた
ブログを紹介します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

カッパのブログより

小学生の頃、学校の先生から
自分が最も尊敬する人をあげなさい
と言うアンケートがあって
私は、「リンカーン」と書きました。

それから、アンケートの結果を見て
私は、愕然(がくぜん)としたのです。
何と、半数以上の人が「自分の両親」
と書いているではありませんか。

その時、正直言って私は
その半数以上の人たちのことを
心の中で笑いました。
「君たちは世界の偉人たちを知らないのか」と。

彼らの業績に比べれば、我々の両親なんて
ちっぽけな存在だと。
そんな傲慢な気持ちを持っていたのです。
 
私は、三人兄弟の長男です。
私の下には、弟と妹がいます。
私は、小さい頃からいつも両親に
「長男なんだから我慢しなさい」
と言われ続け、育ちました。

ところが、成人を過ぎ、久しぶりに
兄弟三人が会って、食事をとっていた時に
弟と妹が口々に
「お兄ちゃんは一番、親に甘やかされたね。
うちの親はお兄ちゃんが一番
可愛かったんだね」と言いました。
私は、「そんなことはない」と
反論しましたが、多勢に無勢でした。 
 
私の知らないところで、弟妹は
両親をしっかり見ていたのです。
それにもかかわらず私は
両親の思いやりに
ほとんど気がづきませんでした。
親の愛に鈍感だったのです
 
中学の頃、私は、母親も父親も
ファッションセンスがなく
ダサイ親だなと思っていました。
もう少しきちんとした格好を
してほしいものだと思いました。
母親は、ほころんだ服にエプロン姿。
父親は、光沢のないすすけた背広。
 
高校の頃、母親がアルバイトを始めました。
その時、専業主婦しか知らないくせに
無理するなと言いたかったです。
また、父親が沖縄や青森に単身赴任した時には
子供を見捨てるのかと思いました。
 
大学の頃、両親は自分にほとんど
構ってくれず、不満が募りました。
しかし、あまり勉強をしなかったため
色々と口うるさく叱られました。
その頃の私は、両親なんていなくでも
自分だけの力でやっていけるさと
本気で思っていました。
 
就職して社会人になった時
世間の荒波に揉(も)まれ
初めて、私の防波堤となってくれていた
両親の有り難みを感じました。
そして、子供の頃、
アンケートに書いた答えが
間違いであったことに気づかされたのです。
最も尊敬すべきは
歴史上の偉人などではなく
まさに私の身近で
陰日向(かげひなた)となって
支えてくれた厳しくも温かい両親だったのです。
 
ある日、両親の若い頃の写真を発見しました。
そこには、まるで映画の1シーンのような
洗練された若いカップルが寄り添っていました。
とても素敵な服装で着飾っていました。
 
私の両親は、決してダサかったのではなく
3人の子供を育て上げるために
涙ぐましいほどに節約し
ほとんど服を新調しなかったのです。

そして、母親がアルバイトしたのも
父親が単身赴任したのも
すべて将来の子供のためを思って
貯金するためだったのです。

両親は、子供達を一人前に育てるために
すべてを犠牲にしたのです。 

この間、両親の誕生日に
何か高価なものをプレゼントしようと考え
母親にはブランドのバックかなとか
父親にはハイスペックの
ノートパソコンかななどと思い
両親に聞いてみました。

すると、両親は、ふたりとも
チョコレートの詰め合わせが良い
言うではありませんか。
しばらくして、その意味がわかり
私は涙が止まりませんでした。
子供を育て上げてまでも
子供達に負担をかけまいと
気遣っているのです。

私は高価な物で愛情を示そうとした
自分が恥ずかしくて仕方ありませんでした。
まさに「親の愛は山より高く海より深し」
ですね。
 
私の大好きな星野富弘氏の詩歌に
次のようなのがあります。
 
  神様がたった一度だけ      
  この腕を動かしてくださるとしたら
  母の肩をたたかせてもらおう。
 
  「愛、深き淵(ふち)より」
  (立風書房)の巻頭から


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メッセージありがとう

自分のことで精一杯で‥忘れていました。
両親に電話しました。ありがとうって‥
(Rちゃん)

Rちゃん、素直で素晴らしい!
この話を読むと、ついつい涙がこぼれてしまうわたしです。
親のことは、若いときにはわからないけど、その恩の大きさは
自分では返せないほどの大きなものですね。
「ありがとう」いっぱい伝えましょう。
(ありがとうの森)

拍手[11回]

復活!にありがとう

エディオンさんからスマホに電話が
 
電気屋さんに入院していたプリンターが思っていたより早く復活!

両面印刷も復活です!
画質も上々ですヽ(^。^)ノ

プリンターが故障したため、コピーで小冊子を作成していましたが、
これで鮮明な紙面に戻りました。

多少、印刷が粗いものを送ったあなたには申し訳なかったです。

それにしても
プリンターさん、ありがとう、ありがとう、ありがとう


そう言いたいです。

普通に動いてくれるときはなんとも思わないけど、
故障して困ると、普通に動いてくれるだけでこんなにありがたいと感じる。

すべてが、そうなんですよね。

だから、すべてにありがとう。

すべてのものにささえられているんです。



今日は、小冊子が届いたよ~と
facebookにメール、ライン、御電話とお礼の数々がどんどんと

お返事ができていない方、申し訳ありませんが本当にメッセージありがとうございます。

読んでいただいての感想もよかったらお聞かせいただくと本当に幸せ増す!(^^)!

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拍手[8回]

たった一言で生きていけるんだなあ ありがとう

こんな、お話をシェアします。
人は、愛された記憶、たった一言で強く生きていけるんだなあ・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

悪さをしたら父ちゃんが悲しむ、こんなことで泣いたら、別れ際に
「かよちゃんは強い子よ」と言ってくれた、母ちゃんが悲しむ。
それが生きる支えとなり、いつも笑顔で生きてきました。

海老名香葉子(えびな・かよこ=エッセイスト)
故初代林家三平さんの奥さま
それは両親に愛された記憶があるからです」


昭和二十年三月十日、東京が米軍による大空襲に遭い、
たった二時間のうちに十万人が亡くなりました。
... 
早いものであれから六十年。
当時十一歳だった私も七十歳になり、
これ以上齢を重ねては、戦火の恐ろしさと
平和の大切さを後世に伝えることができなくなる。
 
私は戦火を逃れるため、昭和十九年に
静岡県沼津市のおばの家に一人で縁故疎開しました。
 
出発当日、私は大好きなおばさんの家に行けると
わくわくしていましたが、母は涙をぼろぼろこぼしながら、
お守りを首からかけてくれると、
「かよちゃんは明るくて元気で強い子だから大丈夫よ」
と何度も、何度も言うのです。

母があまりにも悲しい顔をしているので、
だんだんと心細くなってきました。
 
「母ちゃん、友達ができなかったらどうしよう」
 
と呟くと、母は私の心細さを取り払ってくれるかのように、
 
「大丈夫よ。あなたは人に好かれるから大丈夫よ。
明るくて元気で強い子だから大丈夫よ」
 
  
と何度も何度も繰り返しました。

それが最後の言葉となりました。

空襲後、生き残ったのは疎開していた私と、
すぐ上の兄・喜三郎だけでした。
兄は家族五人が亡くなったことを伝えるため
沼津までやってきましたが、
きっと焼け爛れた死体の山をまたいで、
汽車にぶら下がるようにして東京からきてくれたのでしょう。
 
その夜、私は兄にしがみ付きながら、いつまでも泣いていました。

戦中戦後の動乱で誰もが生きていくのに精一杯の時代、
二人もおばに世話になるのは悪いと、
兄はあてもなく東京へ戻り、私は引き続き沼津のおばの家に残りました。
 
そのあとは東京・中野のおばのもとへ身を寄せました。

どうにか置いてもらおうと一所懸命お手伝いをしましたが、
ある冬の日、瓶に水を張っていないという理由で、おばにものすごく叱られました。
 
それまでは
「いい子でいなくちゃ、好かれる子でいなくちゃ」と
思っていましたが、その日はひどく悲しくなって、家を飛び出しました。

向かったのは、昔家族で住んでいた本所の家の焼け跡でした。
焼け残った石段に腰を下ろし、ヒラヒラと雪が舞い散る中、
目を閉じると家族の皆と過ごした平和な日々が蘇ってきました。

「どうしてみんな私を一人にしたの? 
 もうこのままでいいや……」

その時、一人の復員兵が通りかかりました。
私の前で立ち止まり、鞄の中から一本のさつまいもを
取り出したかと思うと、半分に割って差し出しました。

「姉ちゃん、これ食べな。頑張らなくちゃダメだよ!」

物が食べられない時代、見ず知らずの人が食糧を
分けてくれることなど考えられないことです。
私は夢中になって頬張りましたが、
ふとお礼を言うのを忘れたと気づき、振り返りましたが、
もうそこには誰もいませんでした。  

いまにして思うと、あれは神様だったのかもしれません。
神は私に「生きよ」と告げたのだと思っています。

さつまいもを食べて元気になった私は、
走っておばの家に戻りましたが、
しばらくするとその家にもいられなくなりました。
伝手で転々とする中で、つらいことはたくさんありました。
でも拗ねたり、挫けたり、横道に逸れるようなことは、しませんでした。
 

それは両親に愛された記憶があるからです。

 
悪さをしたら父ちゃんが悲しむ、こんなことで泣いたら、
別れ際に「かよちゃんは強い子よ」と言ってくれた、母ちゃんが悲しむ。
 
それが生きる支えとなり、いつも笑顔で生きてきました。

平和な時代に生きるいまの人たちには、
子どもをいっぱいいっぱい愛してやってほしいと思います。
親に心底愛された子どもは、苦境に遭っても絶対に乗り越えていけます。
 
そしてもう二度と戦争によって、私のような悲しい思いを、
地球上のすべての子どもたちにさせられません。
 
それが戦後六十年の節目に願うことであり、私のすべての活動の原動力になっています。


海老名香葉子(えびな・かよこ=エッセイスト)
故初代林家三平さんの奥さま
致知 2005年8月号「致知随想」より
 

クローバークローバークローバー
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コメントに感謝
お返事ありがとうございます。とても驚きつつも、うれしく思っています。すみません!ミスしました!!書いている途中で、間違えてエンターボタンを押してしまいました。ごめんなさい!本文の続きは〝東京にいらしたときは、お会いしたいですね。 とお袋が言っています。〟です。失礼しました。
柳井大好き〝知哉〟さん

ぜひ、逢いたい!連絡電話番号教えておいてくださ~!<(_ _)>
ありがろう、ありがとう、ありがとう!

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