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聖路加国際病院理事長で、今も現役医師として活躍。
尊敬する日野原重明先生が10月4日、100歳の誕生日を迎えられました。
日野原先生 100歳の・お誕生日 おめでとうございます!。
日野原先生は、1911年(明治44年)、山口県生まれ。
この年には、中国で辛亥革命が起きたほか、日米新通商航海条約で
日本は関税自主権を確立している。
42年に京都帝国大学大学院を修了し、専門は心臓病。
54年、民間病院として初めて聖路加国際病院に人間ドックを、94年には
やはり日本で初めての独立型ホスピスを開設した。
「成人病」に代わる「生活習慣病」という新語の提案者でもあります。
一方、ベストセラーとなった「生きかた上手」(ユーリーグ)など著書も数多くあり、
絵本「葉っぱのフレディ」を音楽劇にするなどの活動でも知られています。
1970年には、学会出席のために乗った日航機「よど号」が
赤軍派にハイジャックされ、人質となった経験もあります。
2005年に文化勲章を受章。
07年からは日本ユニセフ協会大使を務めていらっしゃいます。
★日野原先生自身が語られた
【つらかったこと=
外科医の夢を断念】
私に一番辛かった事件というと、私が京都大学医学部の2年に進級の直前、
肺結核と左側結核性胸膜炎のために1リットルの滲出液を貯め、38度の高熱が
6か月も続いたことです。
結核の特効薬がまだ使えない時代だったので、
6か月間も絶対安静を医師から命ぜられました。
食欲もなく、夜の不眠に悩みました。
強気の性格の私で、クラスの友人のトップを走りたいとの野望が
かなわなかった自分は、世の中で最も不幸な人間だと感じていました。
1年後に、同級生より1年遅れて次の年度のクラスに入り、何とか医学部を
卒業する事ができましたが、最初に志した外科医になろうという目標は、
体力のない自分には 不可能とされました。
この青春時代の逆境は、誠に苦しかったことを告白します。
【驚いたこと=
よど号事件の人質に】
次に、驚いたことといえば、私が58歳の時、福岡で日本内科学会が
開催されるというので、前日の朝一番の日航機で羽田空港を発ち、
富士山の噴火口を真下に見たとき、赤軍派一行9名がハイジャックを宣言し、
機長に北朝鮮の平壌に行けと命じました。
よど号はいったんは福岡の板付空港に着陸し、老人と子どもだけが
降ろされましたが、あとの100人ほどは両手を麻縄でしばられ、
飲み物もなく、朝鮮海峡上空をピョンヤンに向かったのです。
よど号の機長は赤軍をだまし、「ここは平壌」と言って韓国の金浦空港に着陸しました。
赤軍派はだまされたことを怒り、いったん開けたドアを閉じ、
韓国政府と談判したあげく、日本から山村新次郎議員を人質としてピョンヤンへ。
ここで乗客は3泊4日の機内の拘束が解かれ、金浦空港の土を踏む事ができたのです。
この死の危機、不安、恐れは大きかったのですが、解放された歓びは絶大でした。
私はこの経験から、60歳からの我が身を人々のために献身することを自ら誓いました。
許された私の第二の人生は歓びであり、私にとっての最大の感謝でした。
【
生きがいは子どもたち】
今の私の生き甲斐は、戦争を知らない、わずか10歳の子どものため、
10日ごとに全国各地の小学校を訪れていることです。
子どもたちに人のいのちの大切さを伝え、お互い許し合う、戦争のない
社会を子どもたちが作ってくれることを祈念しています。
これが、私にとって真の生き甲斐だと思っているのです。
私はガンになりましたが、
だからこそ
150歳まで目標を持って生きる!
これが私の目標!
先生はひとつの目標でもあります。
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