【取り越し苦労】
ひろさちや「般若心経」生き方のヒントより
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取り越し苦労
飢えたロバがいました。腹をペコペコにすかしていたのですが、
幸運にも乾し草の山を見つけました。
だが、2つの乾し草の山を見つけたのです。それは不幸なことでした。
ロバは「どちらを食べればよいのか?」と迷ってしまったのです。
どちらを食べてもいいのだから、ちっとも迷う必要はない、
と思うかもしれませんが、それは大きな間違いです。
迷いというものの本質は、迷う必要がないから迷うのです。
たとえば、昼めしに鰻重を食べるか、お寿司を食べるか迷います。
それは、鰻重を食べても、お寿司を食べても、どちらでもいいからです。
迷う必要がないから迷うのです。鰻の嫌いな人は、迷わずお寿司を食べるでしょう。
人間は「未来」に対しても迷います。
それは未来が「わからない」からです。
私は20年間、大学の先生をしていました。
理科系の大学で哲学を教えていました。哲学の先生だからでしょうか、
ときどき人生相談に来る学生がいました。
その学生の迷いは、この大学をやめて他の大学に行こうか、
それともこの大学をこのまま卒業しようか、というものが多かったのです。
「好きなようにしたら....」と、私が言いますと、
「自分が何が好きなのかがわからない」と学生たちは答えます。
彼らは、「この大学に残ると、自分の未来はどうなるか」
「他の大学に移れば、自分の将来はどう変わるのか」
それを知りたいと思っているのです。それも正確に予測したいと思っています。
でも、そんなことはわかりません。
「いろはかるた」に、「一寸先は闇」というのがありますが、
まことに私たちの将来は、一寸先がわからないのです。
日本経済がどうなるか、1ドルが80円になるかならないか、
そんなこと、私たちにはわかりません。
いや、それどころか、その学生の寿命がどれだけか、予測なんて不可能です。
ひょっとすれば彼が翌日、自動車事故で死ぬかもしれないし、
東京に直下型の大地震が起きて、東京都民が一人残らず死んでしまうかもしれません。
だから、この大学をやめたほうがいいのか、やめないほうがいいのか、
誰にも予測できないのです。
私は、人生相談に来た学生に言いました。
「迷っているなら、サイコロで決めなさい。
2つのサイコロをころがして、丁が出たらやめる、半が出たら残る。
そう決めるといいよ」 そうすると、たいてい学生は怒りますね。
「先生、ふざけないでください。ぼくはまじめに相談に来ているのです」
2つの乾し草の山を見つけたロバの話にもどりましょう。
ロバは最初、右の乾し草がおいしそうだと思ってそちらに歩いて行くのですが、
途中で左の方がうまそうだと考えて、それで左に行きます。
しかし、左に向かって歩いているうちに、やはり右の方がいいと思い直して再び右に引き返す。
すると、こんどは左の方がうまそうに思える。それで左に向かう。
そうしているうちに、とうとうロバは翌日、2つの乾し草の中間で飢え死にをした。
そういうオチがついている話です。愚かなロバです。
しかし、わたしたちは、このロバを嗤(わら)えません。
わたしたち自身、このロバと同じ迷いを迷っているからです。
どちらを食べても同じなのに、だからちっとも迷う必要がないのに、
それを迷いに迷って苦しんでいます。それが人間なんです。
実は、その問題を、われわれは『般若心経』に聞いてみたいのです。
『般若心経』であれば、そのような問題にどう答えるか?
それがわれわれのテーマなのです。
たとえば、あなたが癌を宣告されたとします。
あなたが癌にかかって、あと1年の寿命と言われたとします。
そのまま何の治療もしなければ、1年の寿命しかない。
しかし、放射線療法をすれば、ひょっとしたら癌を克服できるかもしれません。
だが、その成功率は7パーセントです。
さあ、あなたはどうしますか。
放射線療法を受ければ、いろんな副作用があるようです。
頭髪が全部抜け落ち、肌にはしみが出てきます。全身にむくみが出てきます。
そして、精神的にもげんなりとし、虚脱状態になるようです。
そうなることを覚悟で、成功率7パーセントに賭けて、あなたは放射線療法を受けますか?
それとも、まあ普通の状態で死んでゆきますか?
そこで、迷いが生じます。いや、迷いが生じる人がいます。
でも、言っておきますが、私は迷いませんよ。
私はそのような状況に立たされたら、ためらうことなく治療を拒否します。
普通の状態で死んでゆくことを希望します。
けれども、この点を誤解しないでほしいのですが、それが『般若心経』の教えではありません。
『般若心経』は、頭髪が全部抜け落ちて、見るも無惨な姿になって生きるよりは、
むしろ人間らしい姿のままで死ぬほうがましだと、そんなことを教えているのではありません。
『般若心経』が教えていることといえば、そんなことはどっちだってかまわないということです。
そんなことに こだわるな、というのが、『般若心経』の教えです。
オランダ人画家の格言 キリスト教のイエス・キリストも
「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である」
(マタイによる福音書6)と言っています。
私たちは、取り越し苦労をやめて、今日のことだけ考えていればいいのです。
だから、癌を宣告されたとしたら、そのときに迷えばいいのです。
そういうときには誰だって迷うのですから、
そのときになってしっかりと迷えばいいのです。
それが『般若心経』の教えです。
私は迷わない、といったことは、考えてみると『般若心経』の教えに反するものです。
『般若心経』がわれわれに教えてくれているのは、迷っていいのだよ、
大いに迷いなさい、ということです。
それを、偉そうに私は迷わない、と断言するなんて、もってのほかです。
われわれは、もし癌を宣告されたらどうしよう...と、
なにも取り越し苦労をする必要はありません。
浪人生が、来年も受験に失敗したら....と思い悩むのも、取り越し苦労です。
いっさい、取り越し苦労はやめましょう。
私たちは、取り越し苦労はやめて、そのときになって真剣に考えればいいのです。
・:,。★\(^-^ )♪ありがとう♪( ^-^)/★,。・
♪3秒で幸せ♪
取り越し苦労はやめて
ありがとうありがとうありがとう
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新型コロナウイルスによる先々のことで取り越し苦労する。
大いに迷いなさい。
取り越し苦労、しますか、しませんか?
今日、今ここ、どう生きるか
*「ありがとうございます」*
[3回]