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松村 邦洋さんの紹介 ウィキペディアより↓
(まつむら くにひろ、1967年8月11日 - )は、日本のお笑いタレント、ものまねタレント。愛称はまっちゃん、バウバウ。
中学時代は河本育之(現:読売ジャイアンツ二軍投手コーチ)と同級生であった。よく河本と野球部でバッテリーを組んでいたと言われるが、中学時代に松村は野球部ではなかったため[2]、真実ではない。
山口県立田布施農業高等学校時代から、地元・山口や広島のテレビ・ラジオ番組に出演。柏村武昭がディスクジョッキーをしていたRCCラジオ『サテライトNo.1』でアルバイトのADをしていたことがあり、得意のものまねを披露し人気者となり、番組レギュラーにもなった。卒業後の進路として本気でお笑い芸人の道を目指していたと言い、学校の視聴覚室で教師にビデオを回してもらい、得意のものまねを収録したテープを吉本興業に送付したことがあるという。また、高校2年時に赤点が重なり、1年留年。修学旅行に二回行ったという[3]。高校を4年かけて卒業後、九州産業大学に進学。
大学在学中にフジテレビ『ものまね王座決定戦』の姉妹番組『発表!日本ものまね大賞』に出演、ビートたけしをはじめ石橋貴明(とんねるず)、古舘伊知郎らのものまねを披露し、チャンピオンとなるも、この時点で芸能界デビューはならなかった。その後、テレビ西日本でケーブル捌きのアルバイトをしていた時、番組を見ていた片岡鶴太郎に見出され、大学を中退し上京。当時鶴太郎は『FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島』の中継で同局を訪れていた。
鶴太郎の在籍する太田プロから芸能界デビュー。当時所属していた爆笑問題や松永光代(現:太田光代)らと下積みを重ねながら、『ものまね王座決定戦』の常連として、ビートたけしや掛布雅之のものまねで茶の間を沸かせるようになる。
日本テレビ『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』(第8回)の「冷凍室ダジャレ→ものまね合戦」にて披露した、放送作家・高田文夫のものまね「バウバウ」でブレイクする。この回での活躍により番組の常連となり、ダチョウ倶楽部、出川哲朗らとともに「リアクション芸人」の代表挌となる。
1992年からは、松本明子とともに日本テレビ『進め!電波少年』で司会を務め、「アポ無し取材」で人気を博す。
1992年には、第30回ゴールデン・アロー賞芸能新人賞を、1994年にも第32回の同賞で芸能賞を受賞した。
1993年から1999年にかけて、ニッポン放送『オールナイトニッポン』でパーソナリティを務めた。一旦はパーソナリティを降板したものの、3ヶ月後に復帰。トータルで約6年に渡る長寿番組であった。また、同局の『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』には1993年から金曜日のパーソナリティとしてレギュラー出演している。
1990年代には俳優としても活躍した。日本テレビドラマ『STATION』では、吉田栄作に次ぐ準主役で出演、テレビ朝日『ハンサムマン』では、V6の長野博とW主演した。1995年公開の映画『君を忘れない』でも、当時若手俳優として伸び盛りだった木村拓哉(SMAP)、反町隆史らとともに名を連ねた。
時を同じくして、ファッション雑誌『an・an』の「抱かれたくない男性タレント」の上位に、親友の出川とともにランクインされていたこともある。
1997年に『電波少年』を降板させられた(進め!電波少年#松村降板騒動)ことにより一時低迷したが、2000年から2013年9月まで『探偵!ナイトスクープ』のレギュラーを務めた。
2013年7月に『アメトーーク!』で「本当はスゴイ!!松村邦洋」が放送される。また同年下半期は堺雅人のブレイクにより、ものまねをしていた松村の仕事も増加した[4]。
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生のモノマネにも出逢ってきます(^O^)/
みなさん、応援よろしく御願いします。
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