ありがとうは幸せの種 言葉のチカラであなたは幸せになれます。あなたが開運する言葉や考え方、人生の楽しみ方などを紹介しています。
今日もあなたの心に ありがとうの風を吹かせてごらん
緊急事態宣言が39県で解除✨ ちょっとずつちょっとずつ... 日常が戻っていく
ありがとうを唱えて 今日も心にありがとうの風を吹かす あ〜気持ちいい朝になります
写真は我が家の裏になっていた 野イチゴです 真っ赤な色がスゴイよね❣️ ジャムにしちゃおうの声✨ 早速グツグツ✨ 出来上がりが楽しみです*\(^o^)/*
筆文字も入れてみた 今日もありがとう探して 幸せな一日を呼び込んでます
[3回]
ありがとうの森No.3,351ありがとうは魔法の言葉心のユートピア ありがとうの森ランド♪ 「ありがとうの森 幸せ毎日新聞」2020年5月10日 日曜日おはようございます。一昨日はうれしいお知らせ。にしぽん村長次男に第二子の男の子が5月8日誕生!ありがとうの森の村民がまた一人増えました(^^)/名前は「準都」はやと君です。この時期、無事に家族が増える喜びにバンザイです。神様ありがとう。、さて、今日は母の日。母の日に「親あってこそ自分がある(野口英世と母シカの物語)」をお届けします。★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
【親あってこそ自分がある(野口英世と母シカの物語)】
「心の糧・きっとよくなる!いい言葉」 作家 中井俊已よりより
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆黄熱病の治療のために献身した世界的な医師、野口英世博士はその母親、野口シカ(1853~1918)が苦労に苦労を重ねて育てた偉人です。シカの母親は文字をあまり書けない人でしたが、米国留学中の息子に宛てて一所懸命に描いた手紙が残っており、深い感動を誘います。●野口英世(清作)の誕生野口英世(幼名、清作)は、1876年に福島県猪苗代町に生まれました。1歳半の時、炉に転げ落ち、左手に焼けどを負い、親指が手首に、中指は手のひらについて離れないなどの障害が残ります。母シカは不憫な息子の将来を案じて、自分を責めました。自分がもっと注意していれば、こんなことにはならなかったのにと、幼い息子に泣きながらわび決意します。「どんなことがあっても、この子を一生養っていく」と。シカは百姓になれない清作を学問で身を立たせようと考えました。しかし父親は大酒飲みで、家は貧乏でした。当時は、小学校といっても裕福な家庭の子どもでなければ通うことができず、これまで以上の収入が必要です。シカは、昼は畑仕事をし、夜は二人の子どもたちを寝かしつけた後、近くの川でエビを採り、翌朝それを売りに歩いていきました。重い荷物を背負い、20kmの山道を運ぶ男まさりの仕事もしました。こうして入学はできても、清作は手のことでいじめられました。学校に行かなくなった清作はシカに怒られると思っていましたが、違いました。「ゆるしておくれ。やけどをさせてしまったのはお母ちゃんのせいだ。つらいだろうが勉強をやめてしまったらせっかくの苦労も何にもならない。おまえの勉強をする姿を見ることだけが楽しみなんだ。がまんしておくれ」と、シカは涙ながらにわびるのでした。幼い清作の心は激しく動かされ、このことがあってから清作は学校に行くだけではなく、家に帰っても猛勉強を始めるのです。「医学を志す」やがて清作は、左手の手術を受けることになりました。そこで医学の素晴らしさを知り、小学校卒業後に、手術をしてくれた医師に弟子入りするのです。19歳の時に医師免許を取得するために上京し、わずか20歳の若さで医師免許を取得します。その後、清作は、北里柴三朗が所長を務める伝染病研究所の助手となり、ペスト菌を発見するなどの功績を上げます。1904年、ニューヨークのロックフェラー研究所に迎えられ、英世と改名した清作は、蛇毒や梅毒、黄熱病の研究に没頭します。その熱中ぶりは猛烈で、同僚から「日本人はいつ寝るのだろう?」と言われていたそうです。「母シカからの手紙」渡米後12年。ちょうど、その頃でした。その研究で世界的に認められ始めた息子に、会津の母シカから1通の手紙が届いたのです。シカは貧しさのため小学校に行ったことはありません。しかし、息子に一目会いたさに、囲炉裏の灰に指で字を書く練習をしながら、この手紙を書いたのです。おまイの。しせ(出世)には。みなたまけ(驚き)ました。わたくしもよろこんでをりまする。なかた(中田)のかんのんさまに。さまにねん(毎年)。よこもり(夜籠り)を。いたしました。べん京なぼでも(勉強いくらしても)。きりかない。いぼし(烏帽子:近所の地名)。ほわ(には)こまりをりますか。おまいか。きたならば。もしわけ(申し訳)かてきましよ。はるになるト。みなほかいド(北海道)に。いて(行って)しまいます。わたしも。こころぼそくありまする。ドカ(どうか)はやく。きてくだされ。かねを。もろた。こトたれにもきかせません。それをきかせるトみなのれて(飲まれて)。しまいます。はやくきてくたされ。はやくきてくたされ。はやくきてくたされ。はやくきてくたされ。いしよの(一生の)たのみて。ありまする にし(西)さむいてわ。おかみ(拝み)。ひかし(東)さむいてわおかみ。しております。きた(北)さむいてわおかみおります。みなみ(南)たむいてわおかんておりまする。ついたち(一日)にわしをたち(塩絶ち)をしております。ゐ少さま(栄晶様:修験道の僧侶の名前)に。ついたちにわおかんてもろておりまする。なにおわすれても。これわすれません。さしん(写真)おみるト。いただいておりまする。(神様に捧げるように頂く) はやくきてくたされ。いつくるトおせて(教えて)くたされ。 これのへんちち(返事を)まちてをりまする。ねてもねむられません。(1912年、母シカが英世に宛てた手紙)シカは、幼い息子に一生消えないやけどを負わせたことで、生涯自分を責めながら、息子の無事だけを願って生きてきた人です。長年会えない息子への手紙、そのたどたどしい言葉から、息子への愛情が痛いほど伝わってきます。「英世の一時帰国」英世は、母シカの手紙とその後、友人から届いた母の老いた写真に心動かされ、忙しい研究の合間をぬって、一時帰国をしました。そして、万感の想いで待っていた母シカとの再会を果たしました。郷里に戻った英世は、せめてもの親孝行として東京や関西を一緒に旅行したのでした。立派になった英世を見てシカは、「立派なお前の姿を見られたし、龍宮城に行った浦島太郎のようで大変幸せだよ。心残すことはねえー」と、感謝したのでした。「シカが遺した言葉」シカは、その3年後に66歳で病のために亡くなりました。英世が黄熱病の研究で大きな成果を上げて、南米のエクアドルからアメリカのニューヨークのある駅に到着したとき、英世はシカの死を知らされました。悲しみのあまりホームにひざまずいた英世は、シカから、「世のため、人のためにつくしなさい」といわれた言葉をじっとかみしめていました。その後、英世は、南米やアフリカで、病に倒れるまで献身的な黄熱病の研究を続けました。ニューヨークにある英世の墓石には、「日本の猪苗代に生まれ、アフリカのゴールドコーストで死亡。科学に献身して、人類のために生き、人類のために死す」と刻まれています。母親というものは、いくつになっても、子どもを忘れません。元気でいてほしい。顔を見たい。声を聞きたい。いくつになっても、私たちは子どものままで、いくつになっても、母親は母親です。あなたを産んで、あなたを育て、あなたを守り、あなたをいまも愛している。 ただあなたの幸せを願いながら・・・【出典】『伝えたいふるさとの100話』財団法人地域活性化センター編集・発行シカの手紙原文は、野口記念館収蔵。手紙内の注釈は、財団法人野口英世記念会が付したものによります。・:,。★\(^-^ )♪ありがとう♪( ^-^)/★,。・♪3秒で幸せ♪母思う 母に思われるありがとうありがとうありがとう★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
「母の愛は海より深し、山よりも高し」
こんな言葉もあります
目が見えなくてもいいんだけど、一度だけ目が見えたら、母の顔を見たい。
<辻井伸行(盲目のピアニスト)>最も大切なものは みな ただ太陽の光 野や山の緑雨や川の水 朝夕のあいさつ神への祈り そして母の愛<河野進>ありがとうを伝えたいねhttps://youtu.be/FjN7i-jlxww<しあわせ一万尺>うれしい、楽しい、大好き、しあわせ♪ありがとう、ついてる、愛してる♪ランラララ 信じてる、感謝してます♪ランラララ許します、ありがとう♪*「ありがとうございます」*あなたの今日が健康と幸せとありがとうであふれていますように読んでいただきありがとうありがとうのシャワー☆,。・:*:・☆゜"今日もありがとうの森行きのバスに乗って「幸せ一万尺」「ありがとう一万尺」♪出発進幸!(^^)!♪●◎●◎●◎●◎●◎●◎●◎●◎●◎●◎●◎●◎メルマガを読んでいただいての感想はこちらへお願いします。arigatounomori39@ezweb.ne.jp・・・・・・・・・・☆心が落ち込んだら帰っておいでよ3秒幸せ詩人 ありがとうの森筆文字アーティスト 西本 敏昭心のユートピア ありがとうの森ランドで過ごそう♪ ☆ありがとうの森ホームページ☆http://arigatounomori.iinaa.net/☆ありがとうの森ブログ最新記事☆
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